「いらっしゃい、祐巳」
「お姉さま、本日はお邪魔させていただきます」
「まあ、堅苦しい挨拶は結構よ。祐巳が来てくれて嬉しいわ」
というわけで祐巳は祥子様のお宅にお呼ばれなのである。お父さまとお祖父さまがお仕事でご不在なので、祐巳を夕ご飯にご招待しましょうという清子小母さまの提案であった。

楽しくも超豪華なお夕飯を堪能して、食後のコーヒーをいただいているときに祥子様が不意に言った。
「祐巳。私、貴女に見せたい、いいえ、聴かせたいものがあるの。私の部屋にいらっしゃいな」
お姉さまが見せたいものってなんだろう、と祐巳が考えているうちに、以前お風呂を使わせていただいたあのゴージャスな部屋に到着した。
部屋を見渡してもこの間と特に変わったことはない。
「お姉さま、私に見せたいものってなんですか?」
「こちらよ、祐巳」
祥子さまは、祐巳が入ってきた扉とは別の扉を開けた。そういえばこの扉、この間もあったけれど、あの時はクローゼットかなにかだと思っていたんだった。
祥子さまが開いた扉の向こうには、もう一つ部屋があった。へえ、自分のお部屋だけで二間あるんだ、さすがお姉さま。でも、このお部屋だけでもとってもお広いのに、あのお部屋は何に使うんだろう。
「祐巳、何をしているの。早くいらっしゃい」
「は、はい」
招かれて入ったその部屋はちょっと変わっていた。広さはよくわからないが明らかに祐巳の家のリビングより広い。長方形じゃなくて、微妙に台形をしている。そして壁は普通の壁紙ではなく、波打った厚紙のようなものでできていた。そして家具が何もなく、真ん中にリラックスチェアが一つとサイドテーブルだけがぽつんと置いてある。そして何より目立つのは、そのチェアの正面に二本聳える巨大なスピーカー。スピーカーの間には背の低い棚があり、銀色に光る機械がいくつか置かれていたのだった。
「お姉さま、ここは……」
「私専用のリスニングルームよ。音楽の勉強のためにいい音で聴きたいといったら、お父さまが用意してくださったの」
融小父さま、娘のためにこんなもんまで作っちゃうのか。よほどお姉さまのことを溺愛してるのだなあ。
「でも、変わった形のお部屋ですね」
「そうなの。長方形だと定在波が残るので、敢えてこういう形にしているの。残響音も最適になるように設計されているわ。この椅子の位置も、レーザーポインタでミリ単位で決められているのよ」
そういいながらお姉さまはサイドテーブルからリモコンを取り上げ、話を続けた。
「トランスポートは EIDOS 38 ME、DAC は MIMESIS 20 ME。プリアンプは MIMESIS 22 ME でパワーアンプはミレニアムよ。スピーカーはフルエピローグ。ケーブル類も含めて全部 GOLDMUND なの」
GOLDMUND なら祐巳も名前を聞いたことはある。もちろん自分には関係のない世界ではあるけれど、たしかここにあるシステムをすべて合わせたら福沢家が土地と建物ごと買えてしまうはず。
(はあ、やっぱりお姉さまは違う世界の住人なんだ)
分かってはいることだけれど、こうして具体的に形のあるもので見せつけられるとがっくりしてしまう。
「祐巳。なにか聴きたいものはあって?」
お姉さまの問い掛けに祐巳ははっと我に返った。いけないいけない。また何か顔に出てたに違いない。
「ええと、ショパンが聴きたいです」
思い付いた作曲家の名前を言ってみた。そんなに沢山の曲を知っているわけではないのだけれど。
「そう、ショパンね。ではこれにしましょう。優秀録音盤よ」
祥子さまが一枚の CD を取り出してトランスポートにセットし、リモコンのボタンを押した。
スピーカーから音があふれ出る。ピアニストの息遣いまで聞こえてきそうな、凄まじくリアルな音。でも、なにか違う。
「祐巳、どうしたの? 何かおかしなところでもあるかしら?」
祐巳がちょっと難しい顔をしていたのを祥子さまにみられたらしい。
「いいえ、とてもいい音です、お姉さま。三次元に構築される音場にピアノの音が浮かび上がって、あくまで清冽なのに僅かに色気の感じられる音で。でも……」
「でも、何かしら。言いたいことがあったらはっきり言って頂戴。そのために貴女を呼んだのですもの」
そう言われてしまっては、適当にお世辞をいったのではお姉さまに許してもらえそうにない。祐巳は腹をくくった。
「私はこの音は好きではありません」
ああ、言ってしまった。お姉さまは怒るというより驚いた顔をしている。
「どういうことかしら、祐巳。具体的に言ってくれる?」
「はい。この音はとてもきれいですけれど、心が伝わってきません。私がお姉さまのお弾きになるピアノを聴いて、泣きたくなるくらい幸せになれるのは、お姉さまの心が私の心の中に音の形で入ってくるからなんです。この音では、弾いている人の心がわからないんです」
お姉さまは祐巳の言葉をじっと聞いて、そして穏やかに微笑みながら言った。
「そう。……祐巳には分かるのね。私もそう思っていたところなの。でも、ショップの人も評論家の方々も、小笠原の名前に脅えて本当のことは言ってくれないのよ。祐巳なら私を救ってくれると思っていたけれど、本当に貴女には驚かされるわ」
「お姉さま」
祐巳はじんとなった。お姉さまが自分のことを、それほどまでに信頼してくださっている。
「では祐巳はどうすればいいと思うの? 貴女の意見を聞かせて頂戴」
(お姉さまに私の意見なんて私の意見なんてっ)
でもお姉さまは祐巳の言葉を待っている。
「お姉さま、私の部屋には、父が作ってくれた 6BM8 のシングルアンプとテクニクスのゲンコツ一発のスピーカーがあります。このシステムと比べたらずっとずっとナローレンジでパワーもまったくないのですけれど、演奏家の心と、作ってくれた父の優しさが伝わってくる、大好きなシステムなんです。お姉さまのシステムに必要なのは、お姉さまを愛してくださる方の心だと思います」
「ありがとう祐巳。よく分かったわ。考えてみるわね」

しばらくしてから、祐巳は祥子さまにまたお部屋に誘われた。
「システムを入れ替えてみたの。今度はどうかしら」
そう言いながらお姉さまはターンテーブルで回っているレコードに針を落とした。スピーカーはこの間のフルエピローグではなく、みたこともない黒くてやや小振りなもの。この色は、まさにグランドピアノのものだ。
流れてきた曲は、グノーのアヴェ・マリアをピアノで弾いたもの。じっと聴いていた祐巳は、あることに気がついた。
「お姉さま。これを弾いているのは、もしかしたらお姉さまではないですか?」
「そうよ祐巳。貴女の好きな曲を弾いてダイレクトカッティングしてみたのよ。できるだけ夾雑物を除いて、貴女に私の心が伝わるように」
そういえばこの間あった GOLDMUND の機器はすっかり無くなって、武骨な、いかにも手作りの真空管アンプがぽつんと置かれている。
「お姉さま、このアンプは」
「それはね、お祖父さまが作ってくださったの」
「お姉さまのお祖父さまが、ですか?」
「ええ。この間祐巳が帰ってから、お祖父さまに相談してみたの。そうしたら、祐巳の言うことはとてもよく分かるって。それで作ってくださったのがこれ。2A3 のロフチン・ホワイトというとてもシンプルな回路だけれど、お祖父さまがいちばん好きな回路だから、っておっしゃってね。作っているときのお祖父さまのお顔、あんなに楽しそうなお祖父さまは見たことがないわ」
そう言いながら祥子さまこそ楽しそうにくすっと笑った。
「では、このスピーカーは?」
「ネットを取ってごらんなさい」
言われた通り祐巳がネットを外すと、そこには見慣れたゲンコツが鎮座していた。
「そのエンクロージャはね、ベーゼンドルファーのものなのよ」
「ベーゼンドルファーって、あのピアノのメーカーのですか?」
「そうよ。ベーゼンドルファーは実は今スピーカーの試作をしているのですって。それをきいたお祖父さまがベーゼンドルファーにゲンコツをわざわざ送って作らせたのよ。ピアノを聴くのだから、ピアノメーカーが一番だろうって」
祥子さまを大好きなお祖父さまが作ったアンプと、そのお祖父さまがご自分で作らせたスピーカーを通して流れてくる祥子さまのピアノは、今そこにいる祥子さまが心を込めて弾いている音そのものだった。そしてその祥子さまの心が、まっすぐに祐巳の方に向かっているのがはっきりと伝わってくる。
「お姉さまぁっ」
祐巳は祥子さまの胸に飛び込んだ。
お姉さまの手が髪を撫でる。私はお姉さまに愛されている。そしてお姉さまを愛している人も沢山いる。そういう心がつながって、世界はできているんだ、きっと。
高価な宝石や、高価な車や、高価なオーディオ。それはとても素晴らしいものだけれど、でもそれとは別に大事なものがある。祐巳は幸せを実感していた。
すると祥子さまが急にくすくすと笑い始めた。
「どうしたのですか、お姉さま」
祥子さまはまだくすくすと笑っている。
「お姉さまぁ」
「いやだわ、私ったら」
祥子さまは笑いながら言った。
「このシステムで、安来節を流したら素敵だろうなって思ってしまったのよ、私」
さすがにそれはやめてくれ。頼むから。

戻る