「瞳子ちゃーん」
祐巳は特徴のある縦ロールを人込みの向こうに見つけて大声でよびかけた。
「ごきげんよう、祐巳さま。……大声で呼ぶのはやめていただけませんこと?」
声をかけられた縦ロールは苦々しげな顔で悪態をつく。が、その表情の裏側に喜びは隠せない。
そう、瞳子は祐巳との横浜スタジアムデートを実現させて、勝利の甘さに身を震わせていたのだ。
(いいこと、細川可南子。あなたなんかに祐巳さまは絶対に渡しませんことよ!)
そんなこととは露とも知らない祐巳はというと、
「ごっめーん、だって瞳子ちゃん見つけて嬉しかったんだから。ね、許して」
などと無意識のうちに、瞳子をノックアウトするような台詞をさらっと吐いてみせるのだった。
「よ、よろしいですわ。さあ、早く参りましょう」
紅くなった頬を隠すようにぷいぷいっと祐巳から顔を背け、瞳子はどさくさまぎれに祐巳の手を取って歩き出した。
(どうです細川可南子。瞳子は今祐巳さまとおててをつないで歩いているのですわ!)
ほーほっほっほほ、と手の甲を口に当てて笑い出した瞳子を見て怪訝そうな顔をした祐巳に気がついて、瞳子は無理矢理表情を引き締めた。
「祐巳さまは落ち着きがなくていらっしゃるから、瞳子がちゃんと座席まで案内して差し上げますわ」
「ありがとう、瞳子ちゃん。でも内野自由席だから案内も何もないと思うんだけどね」
くっ、失態。これでは手をつなぎたかっただけなのが祐巳さまに悟られてしまう。
が、瞳子の危惧は杞憂に終わった。
「祐巳さま、そちらは三塁側ですわ! まったく祐巳さまはこれだから、瞳子がついていないと駄目なのですわ」
「ごめんごめん、ほんとに瞳子ちゃんは頼りになるね」
とんでもないことを口走ったことに瞳子自身ももちろん祐巳も気付いてはいなかった。
二人が座席に落ち着くと、ちょうどグラウンドでは恒例のファンによるスピードガンコンテストが行われていた。
「瞳子ちゃん、あれって……」
「祐巳さま、あれはまさか……」
二人の視線の先には、胸に YOKOHAMA
と書かれた白と紺のユニフォームをまとった長身の少女が、腰までかかる長髪をなびかせてすっくと立っていた。
「さあ次の挑戦者です。お名前は?」
アナウンサーが尋ねる。
「細川可南子です」
やっぱり。あんな少女が他にいたら世界の成り立ちを疑ってしまう。
「お年は?」
「16歳です」
「ということは高校生ですね。気合いが入ってますねー。このユニフォームは?」
問われた可南子が背中を向けると、そこには大きく24という数字と ENDOH
の文字。
「遠藤様のユニフォームです。ヤフオクで32万円で落札しました。」
そんなことは誰も聞いていない。
「そ、そうですか、遠藤コーチのファンなんですか?」
「ファンなどという下卑たものではありません。遠藤様は地上に降りた天使、あらゆる野球選手のイデアなのです。遠藤様を一目見たとき、私はそのことを確信いたしました。しかしあの男は、世間では私の父とよばれるあの男は、遠藤様がアキレス腱をお切りになったときの中継を見て、手を叩いて喜びやがったのです。巨人ファンなど所詮そんなもの、男など遠藤様を除いてすべて敵なのですわ!」
可南子の演説で球場全体が静まり返った。
「と、瞳子ちゃん。もしかして可南子ちゃんの家庭の事情って」
「今聞いた通りですわ。だから大したことではないと申しましたでしょう」
確かに大したことではないかもしれないけれど、でも1万2千人(推定)の観衆の前で叫ぶようなことでもないと思うんだけど。
気を取り直したアナウンサーが進行を促した。
「で、ではさっそく挑戦していただきましょう!」
可南子はノーワインドアップで構えて左足を大きく後ろに引き、それからおもむろにボールを投げ込んだ。さすが遠藤のピッチングフォームにそっくりだ。
そして結果は。
「ひゃ、162km/h!! とてつもない数字です!」
アナウンサーの絶叫もかき消されるような異様などよめきがスタジアムを包んだ。
「い、今のはちょっとスピードガンの調子がおかしかったんでしょうか。では、もう一球投げていただきましょう!」
たしかにとてつもない豪速球ではあったが、日本記録を更新する球速はさすがにまずいと思ったのか、アナウンサーがアドリブで可南子にもう一球投げるよう促した。
可南子はにやりと笑い、同じフォームからおもむろに第二球を投げ込んだ。
ボールは見たこともないような変化をし、キャッチャーはなす術もなく後逸した。
「さ、三段ドロップゥウウウウ! あの伝説の名投手、沢村栄治の二段ドロップを超えたぁあああああ!」
アナウンサーの絶叫とともに、球団関係者とおぼしきスーツの中年男性が数名マウンドに駆け寄り、そのまま可南子を連れ去ろうとしたが、可南子はアナウンサーからマイクを奪って叫んだ。
「祐巳さま! いらっしゃいますね? 私は高校を卒業したらベイスターズに入団いたします! 契約金でマンションを買って、祐巳さまと一緒に暮らします! いいえ、祐巳さまを床の間に飾って暮らすのです! 覚えておいてくださいませね!」
そこまで叫んだところで可南子は数人がかりで拉致され、ベンチの向こう側に消えた。
「……可南子ちゃんてすごいね」
「……ドロップなどという言葉、久し振りに聞きましたわ」
突っ込みどころはそこかい。
結局試合開始前の出来事のショックがあまりに大きくて、試合の展開など上の空のまま、二人はスタジアムを後にした。
「瞳子ちゃん」
祐巳が瞳子に話しかけた。
「さっきのことなんだけどさ」
ずっと考え事をしていたように見える瞳子は、その祐巳の言葉に反応し、きっ、と祐巳を見つめた。
「な、なに?」
瞳子の視線の強さに祐巳はひるんだ。
「祐巳さま。瞳子決めましたの」
「何を決めたの?」
「今日帰ったら祥子お姉さまに相談するのです」
「お姉さまに?」
祐巳にはまったく話が見えない。
「細川可南子がベイスターズに入団するのでしたら」
「たら?」
「瞳子と祥子お姉さまで、ベイスターズを買収いたしますわ!」
「へ?」
「祐巳さま、その間の抜けた受け答え、瞳子は嫌いではありませんけれど祥子お姉さまに嫌われましてよ? それはともかく、瞳子と祥子お姉さまがオーナーになれば、細川可南子の好きにはさせませんわ! 祥子お姉さまと瞳子とで、祐巳さまを一生お守りいたします! それでは善は急げですわ! ごきげんよう!」
左手を腰に当て、右手の人差指をびしいっと祐巳に向けてそう宣言してから駆け出した瞳子の後ろ姿を祐巳は呆然と見送った。そんな祐巳が、背後 5m のところにある友の会入会ブースの陰で帽子のつばを噛みしめている可南子の存在に気付くはずもなかった。