「祐ー巳ちゃん」
「ぎゃうっ……あ、聖さまー!」
「ひっさしぶりー。相変らず祐巳ちゃんは抱き心地がいいねえ」
「お久し振りです。ちょ、ちょっと、いい加減離してくださいよー」
「やだ。しばらく会えなかった分祐巳ちゃんの感触を楽しませてね。ぷにぷに〜」
「あーん、やめてくださいよ聖さまー」
なんてことを二人がやっているのは横浜スタジアムの一塁側内野席下のゲート。今日は二人で観戦なのだった。祥子さまが聞いたらお美しい額に血管が浮かぶところだけれど、その祥子さまはお父さまのお仕事に同行して今はブルキナファソにいる。お姉さまが日本にいないのだから、祐巳としても聖さまとのお出かけにはなんの後顧の憂いもないわけで。
「聖さまもベイファンだとは知りませんでした。もう長いんですか?」
「いや、そんなことないよ。あれだよ、稲川のワイルドピッチで優勝を逃して以来だね。まあ初戦を秋山で落としたのが痛かったんだけどね」
すいません聖さま、秋山とか稲川って誰ですか。

「ゆっくぞ、大洋♪ ゆっくぞ、大洋♪ 勝負の世界♪」
聖さまが変な歌を歌っている。
「あの、聖さま。それ何の歌ですか」
祐巳は思わず尋ねてしまった。だって、聞いたことのない歌だったんですもの。
「あれ祐巳ちゃん。『行くぞ大洋』を知らないなんて、祐巳ちゃんも球場に応援に来るんでしょ?」
来ますけど。そんな歌は歌わないし。
祐巳がはてなマークを頭の周囲に飛ばしていると、聖さまはそれに構わず売り子さんに声をかけた。
「あ、おねーさんそれ頂戴。あとさきイカもね。で、祐巳ちゃんはこれ」
聖さまが渡してくれたのはコーラ。
「いただきます。って聖さま、なに飲んでるんですか!」
思わず大声を出してしまったのも無理はない。なんと聖さまはカップ酒の蓋を開けているところだったのだ。
「ん? ああこれ? 見ての通りのワンカップ大関。祐巳ちゃんも飲む?」
「飲みませんよ。だいたい聖さまも未成年じゃないですか」
「固いこと言いっこなし。じゃあ祐巳ちゃんにはこれをあげよう」
……さきイカ渡されても困るんですけれど。
さきイカをかじりながらカップ酒をあおるギリシャ彫刻のような美女。なんだか物凄くシュールな光景に先行きの不安を覚えた祐巳だった。

試合が始まり、頭が混乱していた祐巳もそれを忘れて試合に集中することにした。
するとちょうどバッターの打球が大きな弧を描いて祐巳たちの座っている方へ飛んできた。
「お。ブーメラン打法だ」
聖さまが呟く。
「ブーメラン打法って?」
「うん、柳生宗範の打法。打球が戻ってくるからさ」
「だから柳生宗範って誰なんですかっ」
「そういう選手がいたの。椿林太郎のライバルでね。忍者だったんだよ。忍者って言えば天海もそうだね。魔球スリーX」
「忍者が野球をするんですか」
「盲目のカーレーサーだって野球をするでしょ」
「それって伊集院球三郎じゃないですか」
「それと同じようなもの」
聖さま。そんなことを言ったら金太郎や桃太郎も野球をしてます。

マウンドではホルトが孤軍奮闘している。しつこいようだが今は2003年のシーズン中なのだ。
「ホルトはいいピッチングしてるね。試合が締まるよ、ホルトが放ると。なんちて」
「……聖さま。それって大ちゃん以下です」
聖さまはカップ酒がだいぶいい感じで効いてきたらしい。酔っぱらいのおやじギャグには付き合いきれないので祐巳は話題を変えることにした。
「ホルトってジョー古河が連れてきたんですよね」
「誰ジョー古河って。ヘンリー中川みたいなもの?」
「だから誰ですかヘンリー中川ってっ」
「光の魔球を打った選手」
ああもうこの人本格的にダメだ。
「ジョー古河は、今の渉外担当ですよ」
「ああ、牛込さんの後釜か」
「そうです。人柄重視で選手をとってくるから、いい奴だけど野球はからっきし、っていうパターンが多いんですけど」
「じゃああれだ、いい人っていうと子犬を拾って世話とかしちゃうの?」
「なんだよく知ってるんじゃないですか、聖さま」
「なに、ほんとにそんな奴がいたの? あてずっぽうで言ったのに。子犬を拾うって、そんな漫画じゃないんだからさ」
コラ白いの。あんた今まで漫画の話ばっかりだろうが。

聖さまの意味不明の発言に振り回されているうちに、試合はまたしてもベイスターズの負けに終わった。ホルトは頑張っていたけれど、7回の古木のエラーでキレてしまい、それからはぐだぐだになってしまったのだ。
「あーあ、また負けちゃいましたね」
「そうだねえ。でも私は祐巳ちゃんと一緒で楽しかったよ」
「誰にでもそう言うんでしょ」
「はは、ばれたか。でも楽しかったのは本当」
そういう聖さまの表情がやけに大人びていて、祐巳はちょっとだけどきっとした。
「栞がね」
栞さま。聖さまのいちばん大切な、でも二度と会えない人の名前を突然聞かされて、祐巳のどきどきはさらに加速する。
「野球漫画の最高峰は『どろんこエース』だって言ってたんだよね。でも私は『ミラクルA』だと思うんだ。それで大げんかしたことがあったんだよ」
あれ。話が変な方向に向かってないか。
「一峰大二なんて『七色仮面』じゃない。あんなへんなキャラクター造形をする漫画家の漫画なんて私の美意識に合わないのよね。中の人がソニー千葉だったテレビシリーズはまあいいとしてさ。やっぱりそれより貝塚ひろしでしょ。『柔道讚歌』なんて最高よね。梶原一騎の出世作」
「あ、あの、聖さま。ひょっとして」
「そうなの。栞があの時来なかったのは、絶対それを根に持ってたんだよ。蓉子が持ってきた手紙にはきれい事しか書いてなかったけどね」
「じゃ、じゃあ志摩子さんは」
「その点志摩子とは意見が一致してね。志摩子ったら、若木書房版の『柔道讚歌』の単行本持っててさ。それで私はこの子を妹にしなければならない、って思ったの」
「じゃあ志摩子さんがお姉さまを振ったのは……」
「祥子は『カラテ地獄変』とか『男の星座』とか、そっち方面が趣味だからね。求めるものが違う、っていうわけ」
そうか。そうだったのか。
すべてを悟った祐巳は叫んだ。

「この世は荒野だ!」

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