さて、令さまと横浜スタジアムに行った次の朝。
祐巳は部屋の鏡で後頭部をチェックしていた。
「瘤でもできちゃったかと思ったけど、大丈夫だね。よかった」
令さまにカメラで殴られたところの痛みももうないし、瘤にもなっていない。そもそも事故なんだし、令さまを恨むほどのことでもない。
今日もいい天気。お姉さまにも会える。きっといい一日になるはず。
「行ってきまーす」
いつも通り機嫌よく学校に向かった祐巳だった。

教室についてほどなく、令さまが祐巳を訪ねてきた。
「昨日はごめんね。痛かったでしょう? 私、ああなると見境がつかなくなっちゃって。由乃にも散々怒られちゃったよ」
「いえ、全然大丈夫ですよ、ほら。そんな、気になさらないでください」
令さまはこんな風にちゃんと謝れる人だ。こうしてると本当に格好よくて、超ミーハー乙女の片鱗も見られない。ほら、クラスメートがこっちを見て目をハートにしてる。
「そう、それならよかった。でも本当にごめんね。じゃあ、昼休みに薔薇の館でね」
由乃さんの「令ちゃん」は素直で律義な人だなあ。あ、祥子さまが素直じゃないってことではないのだけど。

さて昼休み。祐巳が薔薇の館に行くと、祥子さまが先に来ていた。
「ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう、祐巳。……あら?」
祥子さまが祐巳を見てけげんな顔をなさっている。
「どうかなさいましたか、お姉さま」
「祐巳。ちょっとこっちへいらっしゃい」
「……はい?」
祐巳が言われるままに祥子さまのそばに行くと、祥子さまは祐巳の後頭部に手を伸ばした。
「お姉さま?」
「これはどうしたの?」
「『これ』って、何のことですか?」
「祐巳。あなたね、こんな大きな瘤を作っておいて、『何のことですか』もないものだわ。私に心配をかけまいと思ってくれているのかもしれないけれど、辛いときには隠さないではっきり辛いと言って頂戴」
「でもお姉さま。本当に何もないんですよ。ほら」
祐巳は自分の手で後頭部を撫でてみた。やっぱりなんの違和感も感じられない。
「嘘をおっしゃい。5ナノメートルは膨らんでいるわ。どうしてこんな大きな瘤を作ったの?」
ナノメートルって。お姉さまはもしかしたら小笠原グループが秘密裏に開発した改造人間かなにかなんだろうか。山百合会に改造人間は一人で十分なんですけれど。
「いいこと祐巳。私はあなたのお姉さまなのだから、あなたのどんな些細な変化だって手に取るようにわかるのよ。ましてあなたがそんな大怪我をしているなんて、見なくたってわかるくらいなの。私がどれほど心配か、あなたにもわかるでしょう?」
お姉さまがそこまで気にかけてくださるのは確かに嬉しい。幸せだ。でも、ちょっと大げさ過ぎやしないだろうか。
でも。
「言いなさい祐巳。私の言うことが、聞けないの?」
お姉さまが本格的にヒステリーを起こし始めたので、祐巳は仕方なく昨日あったことを話した。
「なんですって! 令がそんなことを……!」
あちゃー。やっぱりお姉さまが怒りに震えていらっしゃる。さて、どうやっておさめようか、なんてことを祐巳が考えていると、間が悪いことに令さまが呑気に現れた。

「ごきげんよう、祥子。……あれ。どうしたの?」
さすがに呑気な令さまも祥子さまの様子が尋常ではないことに気がついたらしい。
「令。ちょっといいかしら」
努めて冷静を装っている祥子さまだが、こめかみに血管が浮かび上がっているのがはっきりと見て取れる。武道家の娘たるもの、それを見逃すはずがない。
「な、なによ祥子。怖い顔して。あ、祐巳ちゃんのこと? それはちゃんと謝ったしさ。怪我をさせてしまったわけでもないし……」
「怪我をさせた張本人が言う台詞ではないでしょうゥゥゥゥゥゥゥゥッツ!!」
ドッカーン。ついに来た。
「令、あなたはだいたい不注意過ぎるのよ。由乃ちゃんにも同じことをしたことがあるんですって? そもそもリリアン女学園の黄薔薇さまともあろうものがそんな軽率な行動をして、自覚が足りないわ!」
「あわわ、さ、祥子。まあ落ち着いて」
「落ち着いていられるわけがないじゃないのッ! かわいそうに、祐巳がこんな大きな瘤を作ってしまって」
その瘤の存在を知覚できるのは全宇宙で祥子さまただ一人ではあるが。
「祐巳はね、リリアンの竜水和尚と言われるあなたとは違うんですからね。あんな大きなカメラで殴られたら怪我くらいします」
「失礼ね。私は機関車なんか投げないわよ。大体私が竜水和尚だったら、祥子は韃靼人ブーリバってところじゃない」
「祐巳は令のように無闇に頑丈にできてはいない、ということが言いたいのよ。あなた、まるで罪悪感というものがないのね。怪我をさせたというのに、私の祐巳に……」
「ストップ。ちょっと待って祥子。あなた今なんて言った?」
令さまが叫びまくる祥子さまにストップをかけた。
「え。『罪悪感というものがないのね』と言ったのよ」
「違う。その次」
令さまの表情には打って変わって余裕の笑みが広がっている。
「『怪我をさせたというのに』、と言ったわ」
「だからその次」
形勢逆転。
「祥子、あなた『私の祐巳に』って言ったよね」
あ。
「だだだだからそれは、こ、言葉の綾というもので」
「『私の祐巳』ねえ。祥子も言うものだわ」
祥子さまは耳まで真っ赤になっている。令さまと祥子さまの間でおろおろしていた本来当事者だったはずの祐巳に至っては、百面相を通り越して五十六億七千万面相を披露してしまっていた。
「そ、そうよ。私の祐巳よ。祐巳は私のものなの。それで何が悪いって言うの」
祥子さま、とうとう開き直った。開き直りついでに、祐巳をぎゅっ、と抱きしめてしまった。
抱きしめられた祐巳は、これ以上幸せなことはないというように祥子さまの腕の中でふにゃふにゃになっている。
「お姉さまぁ」
「祐巳」
それまでの緊迫した空気とは正反対の甘い空気が薔薇の館に充満する。
「あーあ、お熱いことで。じゃあ私たちは失礼するね。由乃、行こう」
うまいこと逃げ切った令さまはそそくさとビスケット扉の向こうに消えてしまい、部屋には紅薔薇姉妹だけが残された。
「と、とにかく祐巳。あなたは大丈夫なのね」
「いいえお姉さま。今になって足腰がたたなくなってしまいました。だから……」
「そう。では、あなたが動けるようになるまで、こうしていてあげるわ」
「お姉さま大好き」
「私もよ、祐巳」

カメラで殴られたのは痛かったけれど。今の祐巳は本当に幸せだった。たまたま訪ねてきた真美さんが、二人を見るや部室へすっ飛んでいったことに気付かないくらい。

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