「古木トレード」
祐巳は我が目を疑った。
ここは祐巳が家からM駅へ行くために毎日乗っているバスの中。M駅からの循環バスにはリリアンの生徒しか乗っていないけれど (別名「トリップバス」と呼ばれてマニアの間では一番人気の路線らしい、なんてことはこの際横に置いておいて)、このバスは近くの団地や住宅街から通勤するサラリーマンが沢山乗っている。そういうわけでスポーツ新聞を読んでいる人もいる。祐巳が見たのは、まさに目の前に立っているおじさんが読んでいるスポーツ新聞の一面だった。
「古木って、スター第一候補じゃない。それをトレードだなんて、いったいどういうことなの?」
頭の中にぐるぐるとわけのわからないものが渦巻いたまま、祐巳はバスを降りてリリアン女学園の校門をくぐった。マリア様に手を合わせたものの、何をお祈りしていいかもわからない。
……ああ、マリア様。古木がいなくなってしまったら、ベイスターズはどうなってしまうのでしょう。

「その顔いただき」
祐巳が声の方を向くと、カメラのレンズが光っていた。
「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ。今朝はなんだかアンニュイじゃない?」
アンニュイって、相変らず蔦子さんのボキャブラリーは特殊だ。この人本当に同じ高校二年生なんだろうか。
「ごきげんよう。……なんでもないよ。ちょっと寝不足なだけ」
本当のことを話すと腹を抱えて笑われそうなので、適当な答をしていると、横から忍者のように現れた七三が一人。
「ふむふむ、紅薔薇のつぼみは寝不足でメランコリー、と」
真美さん、話が変わってる。といっても、祐巳にはアンニュイとメランコリーの違いはよくわからなかったんだけれど。
「ふう」
ため息しか出てこない祐巳を見てクラスメートが顔を見合わせていると、教師が入ってきたので二人はあわてて席についた。祐巳はといえば、やっぱり心ここにあらず。幸い、午前中の授業で指されなかったからよかったけれど。

昼休み。祐巳は一目散に薔薇の館に駆け込んだ。
「お姉さまっ。古木が」
「古木がどうしたんですか、祐巳さま」
祐巳はがっくりと力が抜けてしまった。そこにいたのは白薔薇のつぼみ、乃梨子ちゃんだけだったから。
「ああ、乃梨子ちゃん。みんなは?」
「まだみたいですね。祐巳さま、なんになさいますか?」
「えっと、紅茶を頂戴」
じゃなくて。
「乃梨子ちゃん、古木がトレードだって」
「祐巳さま、今朝のスポーツ新聞の見出しでしょう、それ」
「なぜ、それをっ」
また顔に書いてあるのかな。
「違いますよ」
違うのか。よかった。……って、やっぱり読まれている。
「だって、私買いましたから、それ」
「え、乃梨子ちゃん。まさかスポーツ新聞を買ったっておっしゃいましたか」
「買いましたとも。ほら」
と、乃梨子ちゃんが鞄からだしたそれは、まさに祐巳が今朝見たスポーツ新聞。こういうのを女子高生が買うっていうのもありなんだ、と一瞬納得した祐巳だったが、重大なことに気がついた。
「乃梨子ちゃん。スポーツ新聞って、その、真ん中へんに、ほら、えっと……」
「大人のページですね。大丈夫ですよ」
と広げたスポーツ新聞の真ん中へんには、確かに競艇と釣りの記事しかない。
「あんなもの紅薔薇さまがごらんになったら大変ですからね。駅で捨ててきました」
さすが乃梨子ちゃん。クールだ。でも、と祐巳にはもう一つの疑問が生じた。
「なんで買ったかって? それはもう、ここに初芝様の記事があるからですよ」
もう乃梨子ちゃんの読心術には疑問を抱かないことにして、祐巳は乃梨子ちゃんが口にしたとんでもない単語に意識を集中した。
「初芝様って、あのベテラン好きなエセコージに贔屓されて、チャンスに弱くて守備も下手で肩も弱くてそれでもレギュラーが当然だと思っているあの初芝のこと?」
「失礼な。でも本当のことだから反論はしません」
聞けば、千葉出身の乃梨子ちゃんは当然のようにマリーンズのサポーターなわけだけど、中でもベテラン選手、乃梨子ちゃんによればおっさん選手が大好きで、初芝はおっさん選手の理想型なんだとか。栗橋や羽田や佐々木恭介や吹石がいたときの近鉄は最高だったとか、同じ頃の南海は選手名鑑を見ただけで夢に出てきそうだったとか、二枚看板がパンチパーマだった広島はやっぱり素敵とか、たっぷり20分ほど語ってようやく乃梨子ちゃんは「だから初芝様は素敵なんですよ」と話を戻してくれた。
「それって私たちが生まれる前の話じゃ……。乃梨子ちゃんって詳しいの、仏像だけじゃないんだね」
「仏像もパンチパーマじゃないですか」
そうか。そうだったのか。……って、何かものすごく重大でものすごく間違ったことをさらっといわれたような気がする。でも、それより何より大事な話。
「で、古木は? なんて書いてあるの、それ」
「要するに特別待遇はもうしない、と。結果が出なければ古木だってトレード要員になりうる、って話ですよ。古木がトレードに出されることになったわけじゃないです。ほら、そういう風に書いてありますよ」
なんだ、そうだったのか。そりゃあ古木はあんなに打てないのにずっと一軍だし、特別待遇だとは思っていたけれど、いきなりトレードだなんて急過ぎると思った。

安心した祐巳が改めて紅茶をすすっていると、山百合会の他のメンバーがどやどやと入ってきた。令さまと由乃さん、志摩子さん、そして。
「祐巳。古木さんがトレードですって?」
祥子さまの第一声がそれだった。もう、この世が明日終わることを聞かされたみたいに深刻なお顔。
祐巳は乃梨子ちゃんと顔を見合わせて、それから二人で大笑いしてしまった。お姉さまを笑うなんて、本当はとても失礼なことだけれど。
「何を笑っているの、祐巳。こんな重大事にあなたはへらへらして、まったく」
「違うんです、お姉さま」
お姉さまがおかしかったんじゃない。自分とお姉さまが、同じことで大慌てして。真っ青になって、いちばん大事な人にいちばん大事なことを話したくて。そんな風に心が重なったのが、何より嬉しくて幸せだったから。
祐巳はまだ眉を吊り上げているお姉さまの手を取って、そっと囁いた。
「お姉さま。古木はトレードに出されません。安心なさってください」
祥子さまは安心したように、それでいてけげんそうな顔を作った。
「そうなの? それならよかったわ。でも、あなたどうしてそんなことを知っているの?」
「それはですねお姉さま」
それから山百合会の昼食会は、乃梨子ちゃんと由乃さん、それに令さまも加わって、スポーツ新聞の見出しの読み方講習会に早変わりしたのだった。騙された祥子さまはちょっと不快そうだったけれど、祐巳はお姉さまが自分と同じことで慌てるきっかけを作ってくれたスポーツ新聞に感謝したのだった。

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