「祐巳」
大好きなお姉さまの声に祐巳は振り向いた。振り向いて、
「どどどど」
またしても例によって道路に穴を掘ってしまった。
だって、そこに立っていたのはブルーのストライプのユニフォームを颯爽と着こなした美人だったから。
背番号は5。紛れもなく石井琢朗のレプリカユニ。
「お、お姉さま。お似合いです。……でも、まさかユニフォームをお召しでいらっしゃるなんて」
「ええ。だって祐巳が大好きなベイスターズの応援でしょう? 私も一所懸命応援しなければと思ったのよ。私がビデオを見ているのを知って、お祖父様が買ってきてくださったの。」
「ビデオって?」
祐巳は話が読めずに思わず聞き返してしまった。きっと頭のまわりにははてなマークが無数に飛び交っていたに違いない。
「『おめでとう横浜ベイスターズ・98年優勝への軌跡』よ。祐巳の好きなことだもの、私もちゃんと勉強しなければね」
お姉さまが、私の好きなもののためにそこまでしてくださったなんて。ふにゃふにゃになりそうなのをなんとかこらえて祐巳は言った。
「でもお姉さま。今のベイスターズはあの時とは似ても似つかないチームなんです。ローズも佐々木もいません。今日だって先発は多分吉見ですし……。巨人はきっと上原です。」
そう、今日祐巳はお姉さまと一緒に横浜スタジアムで巨人戦の観戦なのだった。薔薇の館で「一度巨人戦が観てみたいなあ」と呟いた祐巳の声を聞き逃さなかったお姉さまが、小笠原グループの企業が持っていたネット裏の年間シートのチケットを入手してくださったのだ。
「あら祐巳。始まる前から負けることなんて考えてはいけないわ。絶対に勝つのよ。よくって?」
祥子さまは唇の前に人さし指を立てて誇らしげに宣言した。忘れてた。お姉さまは大変な負けず嫌いだった。
「だからいいこと祐巳。あなたは応援の作法を教えて頂戴。分からないことがあったらフォローしてくれればいいの。」
何の会話だろう。応援に作法とかフォローって。でも考えてみれば、応援歌や手拍子はビギナーにはちょっと難しいかもしれないし、でもでもネット裏だからあんまり騒ぐと全国放送されて生活指導室に呼び出されちゃうかも、なんてことを考えていた祐巳の顔を見て祥子さまは呆れたように言ったのだった。
「本当にあなたの顔は落ち着きがないわね」
「がーん」
またお姉さまに指摘されてしまった。河原が出てきて負けを確信したときよりショックだわ、と祐巳は深く落ち込んでしまった。祐麒、お姉さんはこのまま海より深く沈んでしまうから、一人で強く生きておくれ。
ネット裏の前から三列目の席に座ると、先発メンバーのアナウンスがあった。予想通り巨人の先発は上原、我がベイスターズは吉見。もう始める前から九分九厘結果が見えてしまう組み合わせだ。
「祐巳。吉見さんは去年は二桁勝利を挙げられたんだったわね」
「はい。でも今年はここまで2勝8敗ですお姉さま。今日も……」
言いかけて祐巳ははっと口をつぐんだ。姉さまはそういう負け犬根性がお嫌いなのだ。
「頑張って応援しましょう。お姉さまが勝利の女神になるように」
祐巳が祥子さまが白いドレスで高らかに勝利を宣言している様子を想像してにやにやしていると、お姉さまの声が現実に引き戻した。
「祐巳、何をにやにやしているの。変な子ね。もう始まるわよ」
いけないいけない。またヘンタイさんになるところだった。
キリキリキリ。何かが引き絞られるような音がする。不吉な予感を感じた祐巳が隣をみると、案の定お姉さまがハンカチを絞っておいでだった。
「どういうことなの? まだ1回の表なのに5点差ですって?」
仕方がないんですお姉さま。何しろ吉見ですから。
そう答えようと思った祐巳だったが、それはお姉さまが望む返答ではないと感じてとっさに言った。
「ええお姉さま。ですから裏の反撃に期待しましょう」
「そうね。そうだわ。そうしましょう」
何かの三段活用のように祥子さまは呟いた。祐巳はピンチを脱した吉見と同じくらい肩で息をしてしまった。
これでもっと点差が開いたらどうなるのかしら、と。
1回裏の攻撃はいとも簡単に上原に三人で片づけられてしまった。敵ながら吉見とは球の勢いがまるで違う。
「まったく、5点差くらいで勝ったつもりなのかしら。いい気なものね」
違うんですお姉さま。これは野球の試合ですから……。でも怒りに震えてこめかみに血管が浮かび上がっている祥子さまの顔を見て、祐巳は何も言えなくなってしまい、かわりにメガホンをお姉さまに渡した。
「何?」
きっ、とにらみつける祥子さまのお顔を見て、ああお怒りのお顔も素敵だわ、と思いながら祐巳はなんとか答えた。
「お姉さま。これはメガホンです。これを叩いてストレスを発散してください」
「あなたったら……」
呆れたように祥子さまは溜め息をついたが、グラウンドに目を向けるとやにわにメガホンで前の座席の背もたれをたたき出した。座っているおじさんがびっくりして振り返り、叩いている人間を見て口をあんぐりと開けた。後ろで騒いでいるのがモデルさんでもなかなかいないような美人だったから。
上原がウッズにフォアボールを出すのを見て祥子さまは叫んだ。
「オラオラオラピッチャーびびってるよ。なにが雑草だコラ。てめえなんざバイク引っかけて逃げるのがお似合いなんだコラ。大体その歯茎全国放送してんじゃねえぞボケが」
……お姉さま。予習のしすぎです。周りの人たちも固まってます。
「あら、いけなかったかしら」
お姉さまは艶然と微笑んだ。
いけなくはありませんけど、お祖父様が見たら確実にお泣きになります。
結局試合は序盤の失点がたたり、上原にやすやすと完投を許し、村田のいつも通りの試合が決まってからのソロホームランで一矢を報いただけで13対1で大敗した。
「ああなんということかしら。」
相変らずお姉さまは怒りに震えている。ああ、やっぱりお姉さまにベイスターズの試合を見せたのは失敗だったなあ、と祐巳が落ち込んでいると、祥子さまはやおら振り返って祐巳に言った。
「祐巳。あなた明日時間があるかしら」
「へぇ?」
「あなた、その間の抜けた受け答えをやめなさい。明日も時間があるか、と尋ねているの」
祐巳がお姉さまが言わんとしていることが理解できなくて首をかしげていると、お姉さまは言い方を変えてくれた。
「明日も応援に来るわよ。負けたままでいられるものですか」
「ええーっ!!!」
祐巳は心底びっくりした。でも、びっくりしてから、明日もお姉さまと二人でお出かけだということなんだ、と分かったらすっかり幸せになってしまった。
「はい、お姉さま」
「今日は負けてしまったけれど、祐巳と二人でとても楽しかったわ。」
祐巳は心が熱くなるのを感じた。お姉さまも私と同じ気持ちでいてくれたんだ、って。
「お姉さま大好き」
祐巳はお姉さまの腕にしがみついた。
「重いわよ」
でも祥子さまも笑っている。明日も負けたら、明後日も一緒に来てくれるかな、明後日も負けたら次のカードも一緒かな、と思うと、祐巳はベイスターズが永遠に負け続けてもいいや、と思えてきた。
でも祐巳は気付いていなかった。祐巳が願わなくても、ベイスターズが勝つことなどめったにないということを。