「ピッチャー、富岡に代わりましてデニー。9番、ピッチャーデニー。」
横浜スタジアムに響き渡るウグイス嬢の声を聞いて、由乃さんはがっくりと肩を落とした。
「ああ、今日もまた負けね。どうしようもないわあのハゲ。」
「どうしたの由乃さん。ベイまだ勝ってるし、ピンチになったから信頼できるピッチャーに交代したんでしょう?」
祐巳は不思議そうに由乃さんに訊ねた。
ここは横浜スタジアム。祐巳は由乃さんに誘われて横浜中華街に美味しい中華料理を食べに来たはずなんだけど、なぜかこのライトスタンド上段に由乃さんと並んで座っている。そういえば待ち合わせの時間がやけに中途半端だったっけ、なんてことを祐巳は考えた。
「祐巳さん、今どういう状況か分かってる? 9回表で一点差で我がベイスターズは珍しくリードしているの。そもそも3点差で勝っているところに富岡なんか出しちゃったから1点差になっちゃったんだけどね。まったくあのハゲは」
話が長くなりそうだったので祐巳は慌てて話を戻しにかかった。
「ハゲハゲって。でも、要するに勝ってるわけじゃない。どうしてそんなに絶望しているのか、ってこと」
「だから緊迫した場面でデニーなんか出すと絶対に炎上して試合がぶち壊しになるのよ。あーもう、令ちゃんのばかっ」
どうしてここで黄薔薇さまがでてくるんだろう。
「だいたい令ちゃんがね、ハマスタの阪神戦のチケットもらったから一緒に行こうっていってたのに、急に用事ができたからっていうからこんなことになるのよ」
私は代打かい。令さまの代打に私じゃ、ウッズの代打に万永を出すようなものじゃない。って、野球のことは分からない祐巳ながら、この試合の間に由乃さんにレクチャーされて大分染まってきたらしい。
「とにかくね祐巳さん。2アウト満塁でバッターは金本。ピッチャーはデニーよ。ここはどう考えてもギャラ様の出番じゃない。なんでそこでデニーなのよ。ばかじゃないあのハゲ。いいえ、あのハゲがばかなのは前から分かっていることだけれど」
由乃さんはキーッと奇声を上げて足を踏み鳴らす。分かりやすいなあ。
「ああ始まっちゃった。もうマリア様に祈るしかないわ。祐巳さんも一緒に祈りましょう。めでたしせいちょうみちみてる……」
由乃さんは下を向いて祈り始めてしまったし、まわりの人たちもすっかり黙り込んでしまっている。微妙な空気に祐巳も何も言えなくなってしまった。
カキーン!
左打席に立ったバッターが鋭くバットを振り抜くと、火の出るような打球がサードを襲った。
「ああっ! そこに打っちゃダメなのに!」
バッターにだって打ちたいところに打つ権利はあるはずだと思うんですけど。
三塁手が軽快に打球をさばいて一塁に送球し、試合は終了した。
「由乃さん、勝ったよ! ベイが勝ったんだよね」
祐巳が由乃さんと勝利の喜びを分かち合おうと横を向くと、由乃さんは呆然としていた。
「どうして? なんで古木が普通に打球を処理したの?」
由乃さんだけじゃなくて、まわりにいた人たちが皆喜ぶのも忘れて、ぽかーんと口を開けちゃっている。状況が呑み込めない祐巳は由乃さんにもう一度向き直った。 「ねえ由乃さん、どうしてみんな呆然としているの? 勝ったんだから喜ぼうよ」
はっ、と由乃さんが我に返った。
「そうね祐巳さん。勝ったんだわ」
まわりの人たちとハイタッチを始めた由乃さんは飛び跳ねている。そんな由乃さんを見て、祐巳はいつもイケイケ青信号の由乃さんが赤くなったり青くなったりする破目になるベイスターズというチームは凄いと思った。
「ああ、それにしてもピッチャーはデニーだし打球は古木のところに飛ぶし、また心臓に穴が空くかと思っちゃった。ね祐巳さん。あれ、祐巳さんどうしたの? 祐巳さん?」
忘れてた。由乃さんは心臓の手術をしてからまだ半年も経ってなかったんだった。
「だからね祐巳さん。私ね、心臓を鍛えるために時々ベイの試合を見に来るの。今日ほど心臓の強化に役立つ試合は珍しいけどね。吉見が先発だったりするとどきどきする暇もなく試合が決まっちゃうじゃない? さあ、とにかく勝ったんだから祝杯よ祐巳さん! 帰りにスタバでコーヒー飲んでいこ? あれ祐巳さんったら、ベイが勝ったのがそんなに嬉しい? 立ち上がれなくなっちゃうなんて」
ああ、もう絶対に由乃さんに心臓の強化訓練は必要ない、と思った祐巳であった。こんな強靱な心臓は他の誰も持ってない。分けて欲しいくらい。
帰り道に寄り道したスターバックスで口から泡を飛ばして山下監督の采配を批判する由乃さんを見ながら、これでよかったんだよね、手術してよかったんだよねえ、と祐巳は自分に言い聞かせていた。


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