「時間というのは不思議なものね」
祥子さまが呟いた。
私は祥子さまの真意をはかりかねて唇を噛む。
祥子さまの美しい横顔はそれこそ時間がその忌まわしい作用を自ら避けたかのように静止している。
「変化には必然的に時間の経過が随伴するものだけれど」
祥子さまは何を言っているのだろう。
なぜ祥子さまはかくも当たり前のことを口にされるのだろう。
いや、むしろ逆だ、と私は思う。時間が経過するからこそ変化が生じるのだ。時間を止めてしまえば、または時間の作用を無視してしまえば、そこに変化はありえない。
「祐巳。あなたはなぜそこに存在しているのだと思う?」
新書判の哲学入門を齧った文学少女のような口調で祥子さまは言う。私に話しかけているようで、その実独言のようで、相変らず私には祥子さまの感情を読むことができない。
「いくつかの偶然の結果として、私はこの場所に存在しているのだと思います……けれど」
「サルトルね」
祥子さまが答える。ああ、まったく文学少女だわ。祥子さまはひどく大人びた表情も見せるけれど、こういう時はまったく女子高生そのものにしか見えない。
「主体的な変革がありえないのだから、私は主体的行動によって自らを投げ込み直すことはできません」
これが祥子さまの求める答えなのだろうと私は先を読む。
しかしそういう予定調和的言語ゲームは私の好むところではない。祥子さまはそうではないようだけれど。
「そういうことが言いたいのではないわ。……いいわ。ごめんなさい」
祥子さまはゆっくりと立ち上がり、私に向かって歩み寄る。そう、このような行動を取る場合の祥子さまの次の行動は決まっている。
祥子さまの顔が近づき、次の瞬間祥子さまの唇が私のそれに触れる。
いつもの行動。いつもの行為。私の感情もいつも通りの反応を示し、僅かに突き上がる衝動が皮膚を押し上げる。
そしてこれもまたいつものように、私には祥子さまの感情を読むことができない。
短い接吻の後、祥子さまは数分前と同じ姿勢で同じ言葉を繰り返す。
「時間というのは不思議なものね」

私が祥子さまの妹、すなわちロサ・キネンシス・アン・ブゥトンのプティ・スールと呼ばれる存在として薔薇の館に通うようになったのはそれほど前のことではない。
下手な少女小説家でも思い付かないような、もしくは思い付いたとしても形にせずに封印してしまうような偶然が重なり、私と祥子さまの関係は始まった。まったく平凡な女子高生であったはずの私の生活は大きく変わった、と、私の周囲の同級生や、おそらく祥子さまやその他の山百合会の幹部である生徒たちも思っているだろう。事実生活の形態は大きく変わったといっていい。
だが私の感情は、ただ一つの例外を除いて、形態の差異とは大きく異なり、変わることはない。
そのただ一つの例外が、祥子さまに接吻されたときに起きる衝動。
私に接吻するときの祥子さまは、いつもの無表情な美少女のままで、自らに課せられた典型的役割を崩そうとはしていないように見える。
私はといえば、祥子さまに初めて接吻されたとき、それが私の人生で初の接吻だったわけではない。
弟が私に接吻し、乳房をまさぐり、精を放出する。それが日課だった。
私は弟の荒い息遣いを耳元に感じながら、いつの間にか共有することになってしまった秘密を、弟の精が描く放物線を、意識の牢獄の奥底に閉じこめている。
嫌悪ではなく、自虐ではなく、虚無。
身体が触れることは私自身にとってなんらの意味を有する事柄ではない。
私の身体も、その内側にある感情もまた、外的な要因によって動かされることはない、筈だった。
しかし、祥子さまの唇が触れたとき、私は形のない衝動を覚える。
私には祥子さまの感情を読むことができない。
変化を認めることができない。
それが苛立ちというものであることを私は知った。
ひどく新鮮なことだった。

祥子さまは私に自分を「お姉さま」と呼ぶように命じた。
私はその言葉の何やら背徳的な、淫靡といってもいい響きが気に入り、従うことにした。
私は自分の判断で行動することはしない。努めて他律的に、周囲と同じであることを選択している。だから同級生たちは私を明るく屈託のない典型的女子高生だと信じている。眼鏡をかけた同級生のカメラのレンズも、私の内部を写し出すことはできない。
祥子さまは私に習慣に従うよう命じた。
私はそれに従っただけのこと。
しかし同時にそれは、私にとって初めての、密やかな主体的選択でもあった。

祥子さまが私に接吻するようになったのは、私が祥子さまを「お姉さま」と呼ぶようになってからのことだ。
きっかけが何であったかは今となっては分からない。いつの間にか、会話が途切れたとき、または二人だけで仕事をしていて -- 女子高の生徒会の事務作業など、仕事と呼ぶほどではないものだが -- 目が合ったときなど、祥子さまは一方的に私の唇に触れ、またその数秒前の日常に帰っていく。
私には祥子さまの感情を読むことができない。
「祐巳。あなたは……」
祥子さまが不意に口を開く。
「何を考えているのか、ちっとも分からないわね」
私は少しだけ動揺した。明るくて元気なだけが取り柄の、やや落ち着きの足りない女子高生。それが私が私に課した役割であり、たかが一つ年上の同じ高校生に見透かされるとは思っていなかったから。
「お姉さまが何を考えているかも分かりません」
私は答える。
「そう。……そうでしょうね」
祥子さまはそれだけ言って、眉を顰めたような微笑のような、微妙な表情を見せる。
私の内部にはまた別の衝動が僅かに頭を擡げる。
「あなたは何に耐えているのかしら」
祥子さまはまた唐突な言葉を口にする。
「何かに耐えているように見えますか」
「見えるわね」
「お姉さまは何に耐えていらっしゃるのですか」
「耐えているように見えて?」
「見えます」
祥子さまが目を見開いたように見えた。新鮮な表情。
「私たちは同じなのね。思った通りだわ」
今度は私が目を見開く番だった。

「なぜ時間が不思議なのですか」
二人で銀杏並木を歩きながら、私は祥子さまに尋ねた。私の方から祥子さまに話しかけることなどまずないので、祥子さまは少しだけ嬉しそうな顔を見せる。ああ、女子高生だわ、この人。
「存在を創出するのも時間、風化させるのも時間、といったところかしら」
言葉によって概念化されてしまえば、想いは陳腐な表層に成り下がる。
「時間がなくなってしまえばいい、と思っていたわ。けれど、時間の経過こそが、私をあなたに巡り合わせたのだから」
私には祥子さまの感情を読むことができない。
「私はあなたを愛しているのよ」
祥子さまの唐突な告白に、私の足は止まる。
葉を落とした銀杏の枝の向こう側に、白い月が朦朧と姿を見せている。
言葉によって概念化されてしまえば、思いは陳腐な表層に成り下がる。
しかし、言葉の形を伴わない限り、私たちは他者の思いを知ることはできない。二律背反。
私は衝動の正体を思い知る。
魂の牢獄を脱することはできない。
けれど、同じ牢獄に思いを同じくする誰かがいるのなら、牢獄も悪くはないかもしれない。
何者をも拒まず、何者をも受容せず、ひとひらの枯れ葉のごとくそこにある。
「時間というのは不思議なものですね、お姉さま」
「そうね」
そのまま沈黙して、私たちは歩みを再開する。
私は胸の奥に広がる衝動の甘さに当惑しながら、落ち葉を踏みしめる。
萌え立つ若葉が風化して私の足下にある。
そこに経過していたはずの時間が、確かにこの手の中にあるのを私は感じていた。

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