「雨、か」
傘を持たない日に限って雨が降る。佐藤聖の七不思議の一つ。あとは忘れた。
私は大学図書館の古びた門にもたれて雨を眺めていた。家を出る時既に空には重い雲が垂れ込めていて、雨を予感させはしたのだけれど、傘を持ちたくない気分だったのだ。しかし、こうしてそれなりに降っている雨を目の当たりにしてしまうと、自分の選択を呪うしかない。講義が終わってから、何をするでもなく図書館の書庫で古い本の背表紙を眺めていたから、もう周囲に私に傘を貸してくれそうな同級生たちの姿はなく、私は文字通り途方に暮れるしかなかった。
雨は否応なく、古い温室のむせ返るように甘美な空気を思い出させる。あの時の私は、自分が祈りに砕かれることなど予想もしていなかった。あの一瞬だけが、未来も過去もない一瞬だけが、私の生そのものだった。毟り取られた生の実感を探し続けてここまで来てしまったのだ。
「佐藤さん」
突然かけられた声に振り向くと、吉崎さんが立っていた。
「傘がないんですか」
「そうなんですよ。出がけに忘れてしまって」
「それは困りましたね。そうだ、ちょっと待って下さい」
吉崎さんはそう言うと、折り畳み傘を広げて走っていった。
吉崎さんがどうするつもりなのかはかりかねて、しかし待つ他にすることもなくそこに立っていると、程なく目の前に小さな自動車が止まった。吉崎さんが運転席から手招きをしている。一瞬躊躇したが、他に雨に濡れずに帰る手段はない。私は素直に好意に甘えることにした。
走って助手席に滑り込むと、車はゆっくりと動き始めた。外見は小さいが、座席は分厚い革張りで、所々に小さなひびが入っているものの丹念に磨かれているのが分かる。ダッシュボードは全面が木製で、その材質も一見して高級なものであることが見て取れる。写真で見たイギリスの古い家の応接間をそのまま小さくしたような光景に、混乱していた神経が少し落ち着いた。
「素敵な車ですね」
そう言うと、吉崎さんは少しだけ表情を崩して、銀色の細いシフトレバーを操作しながら答えた。
「そうでしょう? 御厨先生には、こんな酔狂な車に乗っているから嫁の来手がないんだ、なんて言われますけどね」
小さく笑う吉崎さんの横顔を見て、ああこの人はこんな柔らかい表情も見せるんだ、と私は思った。
「古いし、小さいし、壊れるし、大変なんですけれどね。私はこの中でようやく自分に戻ることができる」
「いつも私たちがみている吉崎さんは、本当の吉崎さんではない?」
「難しいですね」
小さく息をついて、吉崎さんは言葉を探しているようだった。
「そうかもしれません。いや、私などという人間は、本当はどこにもいないのかもしれないですね」
「本当の私など、どこにもいない、か」
吉崎さんの言葉を口の中で繰り返す。カーステレオからは低い音でジャズが流れる。これは私も聴いたことがある。ピアノの音の背後に、小さく人のざわめきや食器の当たる音。
「そういえば」
吉崎さんが言葉をつなぐ。
「佐藤さんはあの大学に編入するんですか」
御厨教授が私に散々薦めたあの話を言っているのだろうか。
「いえ、教授にはお断りしました。私にはリリアンでなければならない理由があるので」
「そうなんですか。御厨先生がしきりにもったいないとおっしゃっていたから。差し支えなければ、そのリリアンでなければならない理由を聞かせてもらえますか?」
「男が嫌いなもので」
嘘を言うつもりも隠すつもりもなかったのだが、うまく説明できそうにもなかったので、以前御厨教授相手に使った言い訳を私はそのまま繰り返した。
「ああ、そうですか」
吉崎さんは特に不審がるでも問いただすでもなく、私の答えをそのまま受け容れた。私は吉崎さんに口走ってしまったことを思い出していた。
「私は、今年度でリリアンをやめるんです」
吉崎さんが言う。
「やめるというか、母校にポストができて、そちらに行くことになりました」
ということは、吉崎さんはリリアンの助手から母校に戻るということだ。
「おめでとうございます。大栄転ですね」
「私もずっと望んでいたことですし、普通はめでたいことなんでしょうけれど。少し困ったことが起きてしまいまして」
「困ったこと?」
「佐藤さんは以前私に、同性しか愛せないのか、と尋ねられましたよね」
そう。そんなことを言ってしまった自分に、私は狼狽し続けている。が、そのことと吉崎さんの事情に、何の関係があるのか。
「そして私は、人を好きになったことがないから分からない、と答えた」
そうだった、そしてそれがどうしたというのだ。
「でも、一つ分かったことがあります。少なくとも、私は同性愛者ではありません」
吉崎さんはそれ以上何も言おうとはしなかったが、パズルのピースがつながるように、私には吉崎さんの言いたいことが分かってしまった。
結局吉崎さんは、その後私の家までの道を尋ねる以外、何も話そうとしなかった。私も機械的に道順を示す以外に何も言わなかった。程なく自宅に着き、私は送ってもらった礼を言うと、そのまま部屋に駆け込んだ。
パワーアンプのスイッチを入れてから、豆を手動のミルで挽き、ネルのフィルタに湯を注ぐ。コーヒーが入るのを待って、トランスポートに CD をセットし、再生ボタンを押す。DAコンバータの信号の同期を示すLEDが点灯する。コーヒーが入るまでの時間はパワーアンプの暖機にあてられる。かつてカッティングマシンを駆動するために設計されたドイツ生まれの真空管のヒーターが暖かい光を放ち、そしてウッドベースが静かに15インチのウーファーを揺すり始め、レンズからはピアノの音がほとばしる。パワーアンプが本領を発揮し始めるにはまだ時間がかかるけれど、今はこれでいい。
一連の短い儀式の間に、私の混乱はさらに大きくなっていた。が、不快な混乱ではない。むしろ、形のなかったものに形が与えられ始めたことに対する畏れだろうか。かつて神は「光あれ」と宣言し、すると光があったという。光はそれまでになかったのではない。光に形が与えられ、この世が始まったのだ。私を形作る様々なものは、すでにそこにある。お姉さまも、蓉子も、祐巳ちゃんも、そして栞も。景も御厨教授も吉崎さんも。私は人との連関において作られる。未だその連関がどのようなものであるかは見えないけれど。
私はプリアンプのゲインコントロールを一目盛りだけ右に回す。ピアニストのうなり声が伝わってくる。このピアニストは、最初に吉崎さんに借りたCDでもピアノを弾いていた人だ。全てが少しずつつながり始め、世界が私の前に立ち現れようとしている。その前で私は跪くのだ。私は祈りの向こう側に何を見ようとしているのだろうか。その答えは、多分そう遠くないところにあるように思われた。
(以下続く)