「ここ、落ち着くなあ」
「聖。……それ飲んだら帰りなさいね」
「はーい」
景は素っ気無く言うけれど、言葉とは裏腹に私を追い出す雰囲気ではなかったので、適当に返事をしておく。勝手知ったる景の下宿に上がり込んでコーヒーを三杯飲んで、気がつけば二時間経っている。
私の頭の中では、吉崎さんに言ってしまったこと、吉崎さんが言ったことがぐるぐると渦巻き続けている。
「聖。あなたどうかしたの?」
「どうかしているように見える?」
「見えるわね。ま、だからといって他人に相談するような人じゃないけれど。でも、用もないのにうちに来る時のあなたは、大体どうかしているものだから」
「はは。ご明察。でも、何がどうかしているのか、自分でも分からないんだよね」
「何それ」
「何だろうね」
「あなたって、はっきりしないわよね。他人にはやたらと世話を焼きたがるくせに、自分のこととなるとまったく駄目なんだから」
景が表情を変えずに、溜め息とともに独り言のように私に言いながら台所に立つ。
私に何くれとなく声をかけてくる同級生や、私を可愛がる先輩は多い。けれど、すぐに思考の迷宮で堂々巡りを始めてしまう私を放っておいてくれるのは、この加東景くらいだ。
私より一つ年上の同級生。「白薔薇さま」ではない私を受け容れる友人。私と付き合うようになってから、どうしてか興味を持って、いつの間にかリリアン高等部の風変わりな生徒会や姉妹制度のことについても実は詳しいけれど、未だに私が全校生徒の憧れの的であったことは信じていないらしい。
「そういえば、この間祐巳ちゃんに会ったわよ」
景が思い出したように話題を切り出す。
「祐巳ちゃんに? どこで?」
「バス停で。あら、あなた最近祐巳ちゃんに会っていないの? 祐巳ちゃん依存症のくせに」
「ばかなこと言わないでよ」
ばかなこと。図星だからこそ。
私を救ったのは、お姉さまであり、蓉子であり、志摩子であり、そして何より祐巳ちゃんだった。
そのことを一番知っているのは、たぶん私ではなく景だ。
「なんだか祐巳ちゃん元気なかったわよ。疲れているみたいで」
「疲れてる? 祐巳ちゃんが? この時期はそれほど忙しくないはずだけど」
「そうなの? てっきり山百合会の仕事が忙しいのかと思った。紅薔薇さまだもんね、祐巳ちゃん。だいたい三人で生徒会を切り回すなんて、合理的じゃないわね。他の薔薇さまたちがあなたみたいな駄目人間だったら地獄だわ」
「由乃ちゃんと志摩子は私とは違うから大丈夫なの。それにしても祐巳ちゃんがねえ」
「気になる?」
「そりゃ気になるね。私のぬいぐるみだもの」
「あなたが抱っこされたいんじゃないの?」
そう言うと景が珍しくからからと笑った。
まったく、この人にはかなわない。
「じゃ、帰るわ」
「そ。じゃあ明日学校でね」
玄関で靴を履く私の背後から、景が言った。

バス通りは夕闇の中にあった。帰宅ラッシュでたくさんの自家用車が数珠繋ぎになっている向こう側にバスを見つけて、私はバス停に走った。幸いなことに私がバス停に辿り着いた時、ちょうどバスは乗車口を開けたところだった。
バスカードを通して、空いた車内を中ほどへと歩いていくと、座席で参考書を開いていた高等部の生徒が私に声をかけた。
「聖さま?」
「祐巳ちゃん?」
「わ、ほんとに聖さまだ。お久し振りです」
目を見開いた祐巳ちゃんが笑う。
「あれー、偶然だね。ちょうど景と祐巳ちゃんの話をしていたんだよ。祐巳ちゃん今帰り?」
「はい、そうです。仕事で遅くなっちゃって。聖さまがここから乗ってくるということは、加東さんのところにいらっしゃったんですか?」
「勘が鋭くなったね祐巳ちゃん。その眼鏡は名探偵の変装かな?」
「あはは。目が悪くなっちゃって困ってるんですよ」
久し振りに会った祐巳ちゃんは、景が言った通り元気がなかった。疲れているようだった。
視力を自慢していたのに、縁のない眼鏡をかけている。けれど、両側で縛ってリボンを結んだ髪形も、ちょっとだけ曲がったセーラーのタイも前のままで、眼鏡の向こう側の瞳の力もそのままだった。疲れているのは単純に肉体的な問題のようなので、私は安心した。
「疲れてるみたいね」
「やっぱり分かっちゃいます? 元気だけが取り柄のはずなんですけれどね」
「なんでそんなに忙しいの? その参考書と関係あり?」
祐巳ちゃんが開いていた参考書は、かなり難易度の高いものだった。
「そうですね。山百合会と受験勉強の両方だから。今日もこれから予備校ですし」
「受験勉強? 予備校? 祐巳ちゃんリリアンの大学にそのまま進むんじゃないの?」
祐巳ちゃんのような子こそすんなりとリリアン女子大の門をくぐるものだと思っていたから、私は少なからず驚いた。
「外部受験しようと思って」
「ふうん、そうなんだ。どこ受けるの?」
何気なく尋ねると、祐巳ちゃんは恥ずかしそうに俯いて、小さな声で答えた。
「……お姉さまと同じ大学を受けようと思っているんです」
私は再び驚いた。祥子の通っている大学といえば御厨教授の前任校で、吉崎さんの母校で、……要するに最難関だ。リリアンからも毎年数人進学するが、相当の成績でなければ不可能だ。
「うわ、いつから祐巳ちゃんそんなに優秀になっちゃったの?」
驚いた拍子に随分失礼なことを言ってしまったが、幸い祐巳ちゃんが気にする様子はなかった。
「そ、そんな優秀なんかじゃないですよ。だから必死で勉強しなければいけなくて。昨夜も予備校の宿題をやっていたら明るくなってきちゃったんですよ」
屈託なく笑う祐巳ちゃんが眩しい。私はちょっと意地悪したくなってきた。
「そーかー。じゃ祐巳ちゃんは大好きなお姉さまを追いかけていくってわけだ」
「そうじゃないですよ、聖さまったら」
思いがけず真剣な眼差しで反撃されて、私はまたしても動揺する。
「結果として志望校はお姉さまと同じ大学ですけれど、追いかけていくわけじゃないんです。勉強したいことが見つかったから」
「へえ、祐巳ちゃんが勉強したいことって?」
「あの、志摩子さんと乃梨子ちゃん……あ、聖さま、乃梨子ちゃんはご存知ですよね」
二条乃梨子ちゃん。私の大事な妹、藤堂志摩子の妹。蓉子の表現を借りれば「孫」というやつだ。
「乃梨子ちゃんは仏像マニアで、志摩子さんはシスターになろうって思ったくらい敬虔なカトリックの信者ですよね。二人を見ていたら、信じるものは違うけれど、よく似ているって思ったんです」
「似ている?」
乃梨子ちゃんのことは正直よく知らないけれど、祐巳ちゃんが言うのならそうなのだろう。この子は、人間の本質を簡単に見抜いてしまう希有な才能を持っているから。
「ええ、なにか超越的なというか、絶対的なものを見出すことって、形は違っていても本質は同じなのじゃないかなって。まったく違うあの二人があんなに信じあえるのって、もしかしたら、祈りの向こう側に、同じものをみてるからかもしれないって思ったんです。そうしたら、人が祈るという行為に急に興味が出てきちゃって」
祈りの向こう側に。
同じものを見る。
世界が突然ぐにゃりと歪んでしまう錯覚に囚われながら、私は必死で平静を装う。
祐巳ちゃんは話を続ける。
「だから、宗教学をやりたいなって。そうしたら、宗教学科って案外なくて、それであの大学にはあるから、それで……」
「そうか、祐巳ちゃんは凄いね。よーし、頑張れ頑張れ。おねーさんも応援しちゃうぞ」
私は動揺を隠すために努めておどけて、祐巳ちゃんの頭をがしがしと撫でた。
「わ、やめてくださいよ聖さまー。あーん、前髪ばさばさになっちゃったじゃないですか」
昔と同じ祐巳ちゃんの反応に、私は安堵した。

バスがM駅のロータリーに滑り込み、車内の乗客が降りていく。高等部の生徒たちが「ごきげんよう」「ごきげんよう、紅薔薇さま」と祐巳ちゃんに声をかけ、祐巳ちゃんも「ごきげんよう」と答える。
「さすがだね祐巳ちゃん。立派な紅薔薇さまだ」
私がからかうと、祐巳ちゃんは照れてわたわたと手を振る。
「わ、私なんかまだまだですよ。蓉子さまやお姉さまのようにはなれなくて。でも、頑張ってますから!」
胸を張って微笑む祐巳ちゃんの柔らかい瞳の光が、私の闇を少しだけ照らす。
私は僅かに軽くなった足取りで祐巳ちゃんと別れて電車に乗った。
車内の座席で、祐巳ちゃんの凛とした横顔と、その唇が紡いだ言葉を反芻する。
祈りの向こう側に、同じものを見る。
私は何を見ているのだろう。
吉崎さんに借りた音楽を創造したあの作曲家は、何を見ていたのだろう。
私は何をしているのだろう。
人は皆、昨日とは違った足取りで前へ進んでいる。
私はどこへ行こうとしているのだろう。
いや、私はここにとどまり続けている。
こことはどこだ?
私は何をしているのだろう。
電車の規則的な揺れに神経を揺さぶられながら、私はずっとそんなことを考えていた。

(以下続く)

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