「ああ、佐藤君」
帰ろうとした私を呼び止める声に私は振り向く。振り向いた視界に映るのは、古びた作り付けの書棚にぎっしりと詰め込まれた書籍、同じように古びた机の上に乱雑に置かれた書類、そしてその上で私を見ている初老の男性。
「悪いが、これを吉崎君に渡しておいてくれないか」
「わかりました、先生」
「そうだ佐藤君。あと、この間の君のレポートだけれどね。ヴァージニア・ウルフに関する……」
私は決して真面目な学生ではないが、この御厨教授に気に入られて、しばしば教授の研究室を訪れるようになっていた。
「君の視点はいつもユニークだ。言いたくはないのだが、どうしてこんな大学にいるのかね?」
私を呼び止めた御厨教授がこの話を持ち出すのは二度目だ。御厨教授は前任の大学を定年退職して、第二の人生をこのリリアン女子大学文学部英米文学科で過ごしている。この大学は旧帝大の植民地のようなもので、そういうご老人の安住の地なのだと、私は先輩たちに聞かされていた。
大学の講義など出席しても仕方がないのだよ、自分で何を見つけられるかが重要なんだ、というのが御厨教授の口癖で、ろくに大学に出てこないのに成績だけはいい私を教授は面白がってくれているらしい。女子大というところは、出席だけして私語に耽ったり化粧を直しているような学生ばかりだから。
「君だったら私の前任校でも十分通用する。なんだったら教養課程が終わったら編入を考えてもいい。私が話をつけておくこともできるが」
「先生。そのことでしたら以前もお断りしたはずです。私にとってはリリアンであることが重要なので」
「ふむ。この間も君はそう言った。君はお山の大将タイプの人間ではなさそうだし、向上心がないわけでもなさそうだ。それでなぜそれほどこのリリアンにこだわるのかが分からないね」
「申し訳ありません。男が嫌いなもので」
努めておどけた口調で切り返してみる。
「はは、そうか」
教授もその辺りは察してくれたようだ。お節介焼きだが過剰に踏み込まないところがちょっと高校時代の親友に似ていて、この人と話をするのは疲れない。
「それで嫌いな男の用事で悪いんだが、それを吉崎君に渡すのは忘れないでくれよ」
それ、というのは先程教授に手渡された、分厚い古い本。表紙に書かれた文字から判断すると、イギリスの学術雑誌を製本したもののようだ。
「はい、了解いたしました。それでは失礼いたします」
教授に目礼し、研究室の古い扉を静かに閉める。私の礼儀正しさ、物腰の確かさもまた、イギリスでの生活の長かった御厨教授に気に入られる要因でもあるようだ。最初は「人は見かけによらないものだ」と失礼なことを言っていたけれど。

御厨教授の研究室を辞して、人気のない静かで薄暗い廊下を歩きながら、教授の言葉を反芻する。確かに私の能力では、リリアン女子大学の水準は物足りない。「学校という場所と仲良くする」ために大学に行くのだと祐巳ちゃんには言った。自分でもそのつもりだった。だが、大学も二年になって、どうもそれがうまくいきそうにないことを薄々感じつつあった。他愛もない話も楽しい、普通の女の子も楽しい、と思い込もうとはしたけれど、違和感を消し去ることはできていない。
加えて、二年生になったということは、高校の後輩たちが大挙して進学してきたことを意味し、未だに「白薔薇さま」という呼び名が耳に入ることになる。そしてその一年生の中には、私をもっとも多く「白薔薇さま」と呼んでいた祥子も令もいない。
祥子は御厨教授の前任校に進学した。法学部に進む課程だという。令は京都の大学にいる。令こそそのままリリアンに進むのだと誰もが思っていたから、皆驚いた。一人江利子だけはその意外性を楽しんでいたけれど、きっと由乃ちゃんは相当のショックを受けたに違いない。
ともあれ、私の親しかった人たちはここにはいない。いないのに、私は「白薔薇さま」のままだ。ここにいては、「白薔薇さま」ではない自分にはなれないのだろうか。ここにいては、いつまでも折り合いをつけることはできないのではないだろうか。

私は立ち止まり、右手にある扉を叩いた。
「はい」
中から声がかかる。
「失礼します」
扉を開けて中に入る。
室内は御厨教授の部屋と基本的には同じ作りだが、教授の部屋と違ってきちんと片づけられ、書棚には新しい明るい色の背表紙が並んでいる。部屋の中央に置かれた机の上のモニタから顔を上げたのが、私が訪ねた相手だった。
「ああ、佐藤さん。こんにちは。どうしましたか?」
表情を変えずに吉崎さんは私に話しかけた。吉崎さん、といっても助手だから教員には違いないのだけれど、英米文学科のスタッフの中では飛び抜けて若いせいで誰も「先生」とは呼ばない。元々は御厨教授の秘蔵っ子で、御厨教授がリリアンに移る時にわざわざ連れてきて助手のポストを与えたという話だ。
「はい、御厨先生からこちらを預かって参りましたので」
持っていた分厚い本を手渡す。
「そうですか、どうもありがとう」
眼鏡の奥の目は柔和だが神経質な光を宿している。きれいに刈り込まれた髭の下の薄い唇を僅かに曲げて、不器用そうな笑顔を作りながら、吉崎さんは私に礼を言った。学生が相手でも丁寧な言葉遣いを崩さないこの人もまた、どことなく居心地の悪さを感じていることが伝わってくる。
「では失礼いたします」
私は会釈した。そのとき下がった目線に、机の上に置かれたものが目に入った。
長い髭を生やし、焦点の合わない視線を彷徨わせた男の写真。その写真はCDのジャケットだった。
写真に魅入られるように、私は CD を手に取った。
吉崎さんがちょっと意外そうな表情を見せる。
「佐藤さんもそういうのを聴かれるんですか」
尋ねられたが、私はその男が誰かも知らない。
「いえ、知らないのですけれど……。でも、この写真が気になって」
「よかったら貸してあげますよ。たぶん気に入ると思う、佐藤さんなら」
「え?」
この人は今何と言っただろう。私ならこの中におさめられた音楽を気に入るだろうと、この人は言ったのだ。私なら、と。
「よろしいのですか」
私は尋ねる。
「ええ、どうぞ。返すのはいつでもいいですから」
「ありがとうございます」
なぜか私は申し出を断らず、CD をバッグにしまい込んだ。
「失礼いたします」
急に逸り出した心を抑えながら、私は吉崎さんの研究室を出た。廊下を走り、校門を駆け抜けると、バスに飛び乗り、そして私はいつもの所要時間よりもはるかに短い時間で帰宅したのだった。

着替えももどかしく、CD をプレーヤにセットし再生ボタンを押す。流れてきたのは、静かなヴァイオリン。それにそっとピアノが絡みつく。明確なメロディがあるのかないのか、不安定な響きが少しずつ溶け合って、少しずつ高みに上っていき、そして静寂に戻る、その繰返し。私は呼吸することも忘れて耳を凝らした。
なんだろうこれは。生まれた時から知っている、そして初めて出会った音。
あくまで静謐なのに、私をとてつもない力で鷲掴みにして離さない。
何度も何度も繰返し聴いているうちに、私は気付いてしまった。
これは祈りだ。
絶対的なものに跪き、許しを求める祈り。
栞が、志摩子が、罪深き己を持て余して求めた救済。
私を打ち砕き、そして救った祈り。
私は混乱し、それでも耳を塞ぐことができなかった。
神は死んだ、と誰かが言った。否! 神は生きている。猛然と人を支配している。私は戦いを挑み、そして敗れた。生涯消えることのない痕を私は穿たれた。
それであってもなお、祈りは私をとらえて離さないのだ。

なぜあの人は、私にこれを聴かせようと思ったのだろうか。

翌日の講義は午後からだった。あまり天気も良くないので、いつもなら休んでしまうところだったが、どうしても大学に行かなければ、と私は感じていた。
大学に行く前に、行かなければならないところがある。
大学の最寄り駅の一つ手前の大きな街で、私は CD ショップに向かった。M駅の駅ビルにもそういう店はあるのだが、そこでは私の欲しいものは売られていないと感じたからだ。そして私は求めていたものを手に入れた。
昨日吉崎さんから借りたものと同じ CD。
これは借りていてはいけない、所有していなければならない。
理由はないが、強くそう感じたのだ。

大学に着いた私は、まず吉崎さんの研究室を訪ねた。
「これ、お返しします」
昨日貸したばかりの CD を返された吉崎さんはちょっと驚いた様子だった。
「もういいんですか」
「はい。同じものを買いましたから」
「そうですか。気に入られたんですね。というより」
妙なところで言葉を区切られたのが気になって、私は続きを促した。
「というより、何ですか」
吉崎さんは少し逡巡して、それから答えた。
「囚われましたね」
私は打ちのめされた。打ちのめされながら、どうにか言葉を搾り出した。
「なぜ分かるのですか」
私の問いに、吉崎さんは答えを探しているように黙り込んだ。そして僅かな沈黙の後、低い声で言った。
「なぜか分かるんですよ。佐藤さんのことが、とても」
突然あることが閃いた。その閃きが、考えるよりも先に私の口を開かせた。
「吉崎さんも、同性しか愛せないのですか」
えらいことを口走ってしまった、と後悔するまでもなく、吉崎さんは目を見開いて言葉を失ってしまった。
「す、すいません。今のは忘れてください。私ったら、何を言ってるんだろう。あの、」
「わからないんです」
私が焦って連ねる言葉を遮るように吉崎さんが言った。
「わからないんです。今まで、誰かを好きになったことはないから」

祈りの向こう側・その2へ続く

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